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野口整体 Ⅰ

このように、操体法に身も心も惹かれ、その効果、安全性、作為性のなさ、どれをとってもこれ以上のものはないとも思われました。
ところが頭の片隅に、かつて本では読んだ野口整体のことが、操体法で完全に払拭はできず、むしろいよいよ鮮やかに浮かび上がってくるのでした。
とはいっても私は別段、操体法と野口整体のいいとこどりをして、ひとりおいしい思いをしようという考えはまったくありませんでした。

両者には大きな共通点があります。
それは生体への性善説です。からだ(体と心=命)を信頼するものと言ってよいでしょう。

野口整体は、病気でさえも心身を調整するための必要な表出であると見ます。
あらゆるからだに起こることは、その必要があって起こっている症状であることが多く、それにまかせていれば健康は保てるという考えです。
操体法は、からだの感覚を信じ、気持ちのよさ、からだがその味わいを求めている感覚こそが、回復していく自然の治癒力だとします。
双方、からだを信頼するものなのです。

ところが野口整体というのは、野口先生の著書を読んだだけではわからないことが多いのです。
野口先生は、どんな病気でも症状でも治したと云われますが、果たしてそれは本当なのか?
また、もしかしたら野口整体とは野口先生の個人的な名人芸で、他の人には到底真似できるものではないのではないか?
などなどさまざまな憶測をしてしまいます。
さらにやっかいなことに野口先生は、人々が自分の整体の技術に頼るようになってしまい、治療術としての整体法を捨てるに至ります(あるいは、治療術そのものが必要のないものということなのかもしれません)。
これはどういうことを意味するかといいますと、野口先生と同等の技術を持った人がいると仮定して、それでもその人に野口先生のおこなっていた整体法の治療法を教わることは難しいということになります。
なぜなら野口先生は不世出の天才でありカリスマですから、その影響下にある人は、教えに背くわけにはいかないからです。
また、同等の技術を有すること自体、あり得ないことのようにも思えました。

前に整体法の本を読んだとき、合掌行気や脊椎行気は自分でやってみていました。
いわゆる「気」を感じることはすでに経験済みでありましたし、それほど難しいとは思いませんでした。

しかし以前に、外気功のようにして治療することを実際に経験したにもかかわらず、なぜ気を送る(愉気)ことでよくなるのか、理解できませんでした。
さも簡単そうに書いてあり、どうしてなのか、また具体的にどうやっているのか、わけのわからない点が心に引っかかっておりました。

野口整体とはもともと、いろいろな療法を寄せ集め、そのなかで効果のあった技法を「整体操法」として選りすぐって集めたのが最初です。
ではそれならば、作為的技術を嫌う操体法とは全然違うではないか、とも思いました。
しかし野口先生は治療術としての技術に溺れることなく、すべての操法の根底に愉気を据え、操者と受者の「気の感応」を重視したところに天才の天才たるゆえんがありましょう。
つまり物体としての骨をどうする、筋肉をどうする、内臓をどうするということではなく、生きて想い、動く生命体としての人間の観察を通して、畢竟、その幸せのために操法を客観化して個人の専有物ではなく、多くの人々にも理解できるようとしたのではないかと思ったのでした。
by ryu-s1959 | 2005-03-08 20:56 | 野口整体


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