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カラオケ

いまでは、もはやインフラと言ってもよいくらいに大衆社会に根づいていますネ。
ところが黎明期は、「おお!ここ、こんな、自分がまるで歌手になったかのように歌うことができるものが発明されたなんて!!」と、多くの人が思っていたハズです。

ちなみに私個人はいささかも興味はなく、当然自分がカラオケで歌うというような発想はありませんでした。
それもそのはず、カラオケというのは私のような若者(当時ですよ、当時)がやるものではなく、中年以降のサラリーマンのオジサンがやるものという認識でした。

当初は、おそらくスナックかなんかがカラオケを導入し、お客さんに歌って楽しんでもらうというようなことだったと思います。
モーレツサラリーマンを経て、それなりの地位につけた人たちが飲み会の延長で歌っていた、そんなイメージですかネ。
つまり、高度経済成長を必死に担ってきた人たちが「歌手気分」になれる、ある種ご褒美のような装置ではなかったかと思われるのですね。

私自身はまさか後年、コムスメども(会社の同僚です)に強制的にカラオケルームに拉致されるという日が来ようとは、とてもとても想像しませんでした。

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記憶を辿ると、あれは80年前後だったように思います。

当時、とある友人の家に遊びにいくと、その裏あたりにスナックがあり、そこからカラオケと酔っ払ったヲッサンの歌声がそこはかとなく漏れてくるのですネ。
さらに、お客さんが店を出たり入ったりしてドアが開くたび、カラオケはクッキリ、まるで自分がステージの観客であるかのるように聞こえてきます。

当方としては別に聴きたくもないのですが、そんなワケでイヤでも聞こえてきてしまいます。

当然、カラオケ文化などというものはまだ社会には浸透しておらず、一生懸命に戦後を働いてきた不器用なヲッサンたちがイキナリ最先端の、いわば黒船のごとき機械にはじめて相まみえるという状況になってしまっていたワケなのです。

たとえば、よく知られている演歌などが、まずはイントロから流れてきます。

そこで都はるみになりきったヲッサンは、残念ながら、まず最初の歌い出しのタイミングから惜しくもズレてしまうのです。
で、そのあと自分でフォローして合うように調整すればよいのですが、悲しいかな、そういったテクニックを持ち合わせていません。

つまり出だしからハズレ、その後もしっかりタイミングはズレ続け、しかも音程もハズレ続けたまま、それでも歌詞はひとつも漏らさず、伴奏とは別世界で本人だけの歌が展開されていくワケですね。
間奏のあいだもお構いなしに歌い続け、本来の歌が終わったあとのエンディングが終了するまでに歌い終えるかどうか、否、それさえも気にせずに歌い続け・・

でも、歌い終われば、きちんと空気を読む周囲の人たちの暖かでおごそかな拍手に包まれるのです。
それはある意味、ほっこりとする情景なのかもしれません。

その、カラオケとヲッサンの果てなき攻防・・
友人の家でダベっているあいだ、音量の大小はあれ、それは寸分の漏れもなく、聞こえてくるのでした。

ただ、今も昔も変わらないのは、カラオケで歌うのは人のためではなく、まさに自分のためのものであるというあたりでしょうか・・

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「昭和」というキーワードに耽溺している若者、また少年少女よ!
表面だけの昭和を見てはイケナイ。

昭和の本質というものは、かくなるものである。

# by ryu-s1959 | 2024-04-18 15:45 | 人生の備忘録

渋谷百軒店

先日、アド街ック天国で特集してましたね。
かつて私のホームグラウンドでもありましたので、今回は百軒店について記してみましょう。

成り立ち

アド街ックでも少し紹介がありましたが、今年は100周年です。
では100年前になにがあったかといいますと、ズバリ関東大震災です。

そのときに下町は地震によって壊滅的状況になってしまいました。
当時、歓楽街といえば下町浅草。
そこから焼け出された店は多かったのです。

そこにビジネスの匂いを嗅ぎつけたのが、当時「箱根土地」の会社の社長、堤康二郎。
後の西武の総帥です。
義明、清二の父親ですね。

百軒店の空間というのは、テレビでも店主たちが「まるで村のよう」と言っていたように、外界とは隔てられた、なにやら特殊な世界となっています。
なぜかと言いますと実は、元々は中川伯爵という貴族の屋敷だったのです。
ですので、家の敷地の内外が明快な形で区切られた、別世界になっていて不思議ではありません。

なにかの記録では、ある意味没落貴族だったという話もありました。
もしかしたら康二郎は二束三文で買い取ったのかもしれないなどと、要らぬ妄想をしたりしてしまうのが、私の悪いクセです。

そして、そこに下町にあった店を呼び寄せて一大歓楽街に仕立て上げたワケです。
資生堂パーラーや台湾館など、そうそうたる顔ぶれです。

当時にとっては目もくらむようなきらびやかな世界であったことは想像に難くありません。
しかしながら下町が復興するにつれ、戻っていく店が出始め、やがて店の並びが歯抜けになったり代替わりしたりして、徐々に寂れた雰囲気になっていったということです。

往事の百軒店の栄枯盛衰を、竹久夢二が絵付きで記したエッセイが残っていました。
実はこれを探すのに国立国会図書館や大宅文庫などを巡ったりして、何日足を棒にして歩き廻ったことか・・

そのようにしてある意味衰退してゆく百軒店ですが、やがて始まる第二次世界大戦の「東京大空襲」によってほとんどが焼けてしまうことになるのでした。

戦後

かくて戦争によって東京は焼け野原となりましたが、百軒店とて例外ではありません。
では百軒店は解体してしまい、存在すらしなくなってしまったのでしょうか。

いいえ、形は変われど、それからも繁華街のなかの異空間として残り続けます。

まずは昭和元年創業の「名曲喫茶ライオン」、これがあとにも先にも百軒店の「主」であることに間違いはありませんが、これが当初の建築と同じようにして、戦後すぐに店を再建しました。

その後、大きなムーブメントとしては、ジャズ喫茶ですね。
昭和26年だったと記憶しますが、ここにジャズに精通した宮澤さんが「スヰング」というジャズ喫茶を創業しました。
※実は後々の話ですが、私は宮澤さんにずいぶんと可愛がってもらうことになるのでした。

その頃はオーディオが家にあるという人はまずなく、ジャズなどは音楽喫茶などで聴くという文化がありました。
かくて「スヰング」は当たり、それに倣って同じ百軒店にジャズ喫茶を始める店がぞくぞくと出ました。
東京オリンピック前後のことです。

後追いの私が知っているだけでも、5、6軒くらいはあったのではないでしょうか。
「スヰング」、「オスカー」、「ありんこ」、「ブラックホーク」、「音楽館」、「ミンガス」などなど・・
ちなみに「ミンガス」はいまでも看板だけは残っているんじゃァないかな・・

荒木一郎さんの「ありんこアフターダーク」という小説があるのですが、内容が実話かどうかはさておき、実在したジャズ喫茶など、舞台装置に関してはすべて真実、ありのままです。
私はこれを読んで、あたかも青春群像が彷彿とするように、往事をしのびました。

ときに、映画館も3つありました。
ただ、テレビの普及とともに映画産業が左前になってきたことをうけ、そのなかのひとつは(70年代に流行った)ボーリング場に変わったこともあったようです。

名曲喫茶ライオンに入り浸ってた頃、タバコを吸うのにマッチをもらうと、そこには「テアトルボウル横」と書いてありました。
ただしそのときはすでに、ライオンの隣にボーリング場などありません。
もしかしたら、いまでも同じマッチがあるのではないだろうか・・

ほかにも池波正太郎さんがエッセイで書いていた「印度料理ムルギー」もあります。

私が棲んでいた80年代になりますと、もはやそこはいまで言うレトロ、つまり、すでにタイムスリップした異空間の街だったのです。
歓楽街も音楽喫茶やジャズ喫茶も、一杯飲み屋や小料理店も、すべてはかつて栄えていた幻影の残り香のごとくに、一種たゆたうようにその場に在りました。

そしてそれは令和の現在でも、「昭和にタイムスリップした街」というようなイメージで、現代の異世界として存在を際立たせているようです。

池袋にも新宿にもない、坂の街である渋谷、特に百軒店界隈には、過去の亡霊が隠れることのできる空間が少なからずあるのでしょう。

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そしてまさに、その界隈に根を下ろしていた私は細い路地も知り尽くしており、どこの路地にはどういう猫のファミリーが暮らしているかも知っていました。

もともと安藤組の根城だったこともあり、小指のないおじさんもずいぶんと見ました。
と言いますか、銭湯に行けばなにやらあざやかな背中やら胸やらのおじさんは必ず見ましたネ。
つまり、ほぼ毎日そのような方々と相まみえ、ときに四方山話をしていた日々でした。

ポン引きのお兄ちゃんも、私の通勤時には(徒歩通勤ルートなので)いつも挨拶をしてくれました。

ずっと手をつけられていない「円山荘」というアパートの廃屋もありましたし、そこへ向かう路地にはブティックホテルやラブホテルというよりは、まさに「連れ込み宿」という表現がピッタリのドドメ色のホテルも隠れてあったりしました。
なんといいますか、なにやら映画のセットみたような塩梅です。

鷺もいましたし、コウモリも飛んでいましたし、クマネズミもいましたね。
たぶん、いまでもいるでしょう。

それからも渋谷に行けば、ホームグラウンドに帰ってきた懐かしさがありました。
でもイザいま行ったらあまりの変化に戸惑い、迷子になってベソかくんじゃないかな・・

# by ryu-s1959 | 2024-04-08 08:51 | 人生の備忘録

もしも・・

鳥山明さんが亡くなり、世界中がその死を悼んでいます。

ちなみに私、ドラゴンボールはそこそこ読んでいます。
なぜかと言いますと、読める環境にあったからです。

当時、私は渋谷のヴェルサイユ宮殿と呼ばれた(?)楼閣御殿にお住まいになっておりました。

はい?ええ、鏡の間も社交場も厨房の部屋もちゃんとありますヨ。
ただし、ひとつの部屋ですべて兼用してましたが・・

え?ワンルームじゃないかって?
失敬な!六畳一間ですよ!

ちなみに部屋にトイレはついておらず、廊下の奥に共同のがありました。
そこの宮殿にはお風呂もないので、近所の銭湯に入りにいきます。

ヴェルサイユ宮殿・・、これを翻訳すると「兎月荘」になるんですナ。
まァ名前としてはけっこう雅なおもむきですが・・

で、コインランドリーがあるので、毎回そこで洗濯をするワケですね。
んで、そこにジャンプが置いてあるんですナ。

乾燥機をかけながら、かたわらでしっとりと読書をするような塩梅です。
なので、「北斗の拳」も、「ドラゴンボール」も、だいたい読んでたワケです・・

しかし、逝かれるのが早かったですね。
連載している漫画家の方たちは、かなり過酷な環境にありますので、大変だと思います。
手塚治虫さんも早かったですよね。

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いまはインターネットやSNSで、さまざまな情報や文化が世界に行き渡りやすい環境になっていますよね。

で、私なんぞはついつい、もしいまの環境が70年代にあったら、などと・・

世界中の人々が、「タイガーマスク」の弱い者を助ける強靱な魂を、「あしたのジョー」の不屈の精神力を、「愛と誠」の孤高の矜恃を、「巨人の星」の過酷な道のりを渡りきる強い思いを胸に刻み込んだら・・はてさて、世界はどう反応しただろう・・

早朝の沈丁花のかぐわしい薫りに、仄かにむせびながら、そんなことをつらつら想ったりするのです。


※いずれも梶原一騎原作

# by ryu-s1959 | 2024-03-16 18:02 | 随感

ほ、本末転倒・・?

日経平均株価が高かった、特に80年代、あのころは金持ちも貧乏人も、こぞって遊ぶことしか考えてなかったように思えます。
実際に私自身も、暮らし向きは最底辺のようなおもむきがあったと思いますが、さしてなにか心配していた記憶はありません。

しかしいま、平均株価が最高値を更新しても生活が苦しいという人は多く、とにもかくにも皆が皆、気になるのはまさにお金一本!
なにかあっても振り落とされないように、「一に貯金、二に貯金」というのがいまの世の中ではないでしょうか。

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ちなみにお金を貯めるにはどうしたらよいかといいますと、大きく分けて2つ、あります。

ひとつは稼ぎを増やして貯める。
いまひとつは節約をして貯める。

ということでいま、節約が大きくクローズアップされています。

私のごく身近の人ですが、この人もよく節約系のYouTubeを見たりしています。
また、節約方面の本も何冊か持っています。

そしてまた、新たに節約の本が出るとのこと。
買おうかどうしようか迷っているもようです。

まるで、「節約のためだったら、カネに糸目はつけねェZ!」と言っているかのように、私には思えてしまいます・・
まァ世の中には、「健康のためだったら命だって惜しくないZ!」という人もあるようですが・・

# by ryu-s1959 | 2024-03-13 15:20 | 随感

愉和20周年!

当室は2004年1月7日に開業いたしました。
ですので、満20年になりますね。

ちょいと当時を思い出して、少しくしたためてみましょうかネ。

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まず、開業届けを出したはよいのですが(これくらいは誰でもできる)、自分で作ったダメダメHPのアップロードにずいぶんと手こずりまして、やっと予約フォームもつけることができましたが、そのあとはずっと閑古鳥・・
実態としては整体を生業とする事業者・・、というよりは、要はただの失業者と言った方がよほどに近い。

電話が来て、すわっ、お客さんか!と思って出ると、「お世話になっております、〇〇株式会社と申します」
・・ガッカリ・・
いや、私はキミのことを世話した記憶は一切ない!・・と、言ってやりたくなります。

そんな塩梅で次から次へとホームページ製作会社から電話がかかってきます。

私のダメダメHPを見て、彼らには「ネギしょったカモ」にしか見えなかったことでしょう。
一方私は私で、彼らのことは「ハイエナくん」と呼んでおりました。

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が、他からも電話はよく来ました。それは幼なじみで、精神疾患を患っていたSちゃんです(電話魔)。

だいたい、電話が鳴って、「お客さんであってくれ!・・」と思って電話に出ると、ほぼすべてはハイエナくんか幼なじみの彼でした。
当時の私の失望はいかほどだったでしょう・・

ただ症状はかなり深刻で、彼のおふくろさんからもSOSの電話が来ることもありました。
私は時間があるのをいいことに(悪いことに・・?)、彼に会いに行ったりしていました。

幼なじみの私がいることで思い出話も出たりして、彼も少しほがらかになるのです。
それでおふくろさんは少しホッとできたようです。

んで、「ぜんぜん酔わないンだよナ~・・」と言いながらSちゃんは次々とビールを空けていきます。

何度かおふくろさんからも相談を受けて、思い立って彼の地域の役所の福祉課に相談しに出張って行ったこともありました。
ちなみに彼の家は裕福な資産家でもあり、不労所得もたくさんありました。

要は、失業者が金持ちのためにいろいろ立ち動いていたことになりますかネ。

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それから、私も集客に悩んでおりましたので、とうとうハイエナくんの口車に乗り、決して安くはない費用をはたき、HP製作を依頼してしまいました。
なんでも、そこで製作すれば月に10件の問合せが来るようになる、とのことでした。
私も現状を打開しなければということで、ついつい依頼してしまったワケです。

しかしフタを開けてみれば、私の作ったダメダメHPとなにも変わりません。
こういう実体のない誘導による営業って、いわゆる「詐欺」、あるいは「貧困ビジネス」と呼ばれるべきものなのではないでしょうかネ・・?

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まだまだ辛くて悲惨な話は枚挙に暇がありません。
当時、悲惨以外の話はないンじゃないだろうか。

いやまァ思い出すと、ただただ苦労と悩みの連続だったですなァ・・。

# by ryu-s1959 | 2024-03-07 07:08 | 随感